FXと不招請勧誘

[編集] 北ベトナム軍の全面攻撃 1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図北ベトナム政府はその後、アメリカの再介入の恐れがないと判断し、1975年3月10日にパリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始した。いわゆるホー・チ・ミン作戦である。 この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港として知られるダナンが陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに対して軍事支援を要請したものの、完全に南ベトナム政府を見捨てたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。 4月中旬には南ベトナム政府軍が首都・サイゴンの防御に集中するためとして主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた上に士気も落ちており、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、まもなく北ベトナム軍はサイゴンに迫った。 FX [編集] 土壇場での混乱 ズオン・バン・ミン大統領(右)と北ベトナム軍のチャン・ヴァン・トゥアン将軍(左)4月21日にはグエン・バン・チュー大統領がこれらの事態の責任を取り辞任した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。 穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任には同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン大統領による土壇場での和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。 FX 陥落による混乱を恐れた富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で国外への脱出を図っていたが、この頃になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地にも攻撃が及んできたために、同空港を発着するベトナム航空やパンアメリカン航空、シンガポール航空などの民間航空機の運行は4月26日を持って全面的に停止した。また、一般市民も南ベトナム政権の崩壊を予測し、南ベトナムの通貨であるピアストルを金やダイヤモンド、アメリカドルに交換したために、ピアストルの価値が暴落した。 [編集] サイゴン撤退作戦 FX ヘリコプターでアメリカ軍の航空母艦に脱出した南ベトナム人 海中へ投棄されるUH-1ヘリコプターこの時すでに南ベトナム軍は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃が続いた為に、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。その後まもなくサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲され、滑走路が破損したために軍用機の発着も完全に停止し、北ベトナム軍によるサイゴンへの突入を食い止めるべく戦っている南ベトナム軍の地上軍への援護が不可能になるなど、後は陥落を待つばかりとなった。 サイゴン陥落が避けられない状況となったため、アメリカ軍はアメリカ軍関係者と在留アメリカ民間人、そしてアメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退作戦であるフリクエント・ウィンド作戦を発令した。この作戦の開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍関係者と南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍の空母や大型艦艇に向けてアメリカ軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続け、空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海洋投棄し、次に飛来するヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。 FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 しかしこの際に、在留する日本人は、残留するアメリカ人の撤退を行うことだけでアメリカ軍が手一杯なことや、日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人がベトナムに残っても北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低いことなどを理由にアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。その上に、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために欧米諸国のように政府専用機や軍用機による救出活動が行われなかったことや、労働組合の反対で日本航空の救援機も運航されなかったために、混乱下のサイゴンに取り残された。 FX なおこの際に、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であることを理由にアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、その結果駐南ベトナム韓国大使以下の在留韓国人の殆どが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残されることとなった。 [編集] サイゴン陥落 南ベトナム大統領官邸(現在はベトナム統一会堂)4月30日の早朝には、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元副大統領ら南ベトナム政府の要人や軍の上層部、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム特命全権大使など南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くもサイゴン市内の各所からアメリカ軍のヘリコプターで海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した。しかし撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ政府の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまでサイゴン市内に突入しなかった。 同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は北ベトナム軍に拘束され、サイゴンは陥落。アメリカの支援も首都も失った南ベトナムは遂に崩壊した。 [編集] 南北ベトナム統一 ホー・チ・ミン市内のホー・チ・ミンの銅像陥落後、1969年に南ベトナム解放民族戦線(NLF、ベトコン)、民族民主平和勢力連合、人民革命党によって結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。しかし、臨時政府は、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立したものであり、主要閣僚職はいずれも南ベトナム解放民族戦線内の労働党員に占められていた傀儡政権であった。なお、南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者なども多数参加していたが、ベトナム統一後、それらの影響は徹底的に排除された。 南ベトナム共和国臨時政府はその後は正式な政府に発展すること無く、1976年7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言され、「南ベトナム共和国」という国家はサイゴン市陥落から1年余りで消滅した。 統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。また、その後サイゴン市は北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」と改名された。 南ベトナム軍の将校には当局への出頭が命ぜられ再教育キャンプに送られたが、その多くが以降消息不明となる。 [編集] 損失 [編集] ベトナム ジャングルに枯葉剤を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数千万の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制に関わらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊(と北ベトナム軍の軍事活動やテロ)により国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。 また、共産主義政権による武力統一および性急な社会主義経済の施行は、長年比較的自由であった資本主義経済に慣れ親しんだ多くの南ベトナム国民の混乱や反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により容赦なく処刑されるか強制収容所送りになった。解放戦線は正規軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。僅かに解放戦線議長を務めて統一に多大なる貢献をしたグエン・フートは戦後に実権が伴わない名誉職である国会議長を務めた程度である。 南ベトナムの元司法大臣チュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)で、サイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4874300278)によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。